2016年12月02日

ワシントン・アーヴィング

アーヴィングはニューヨークのマンハッタンに商人の息子として生まれた。父親はスコットランド系、母親はイングランド系の移民で、11人兄弟の末っ子だった。名前はジョージ・ワシントンにちなんで命名された(子供のころジョージ・ワシントンに実際に会っている)。1804年、保養かたがたヨーロッパに遊び、1806年に帰国して弁護士を開業、傍ら文筆に親しんだ。
1807年に兄や友人らとともに、ユーモアやパロディを交えて社会情勢を語る雑誌『サルマガンディ』を発行。1809年には、最初の自著『ニューヨークの歴史』を上梓。同時期に、17歳の恋人を亡くしている。米英戦争の影響で、アーヴィング家の商売に行き詰りが生じ、イギリスで貿易商をしていた兄を手伝うために1815年に渡英。兄が病気になり破産したため、家計を助けるため執筆に励み、以後17年間をヨーロッパで過ごす。1817年には、長年の憧れの作家ウォルター・スコットと人を介して会うことが叶い、スコット邸に4日間滞在。スコットとの会話をきっかけに、執筆を本格化し、1818年には、アーヴイングを一躍有名にした「リップ・ヴァン・ウィンクル」、「スリーピー・ホローの伝説」を含む短編集『スケッチ・ブック』を出版した。
法律家でもあったアーヴィングは、アメリカの対イギリス・スペイン外交官のメンバーであった。アーヴィングはスペイン語が流暢だったため、スペインに関する彼の著書は素晴らしいものとなった。また、ドイツ語やオランダ語など、ほかにもいくつかの言語を読むことができた。アーヴィングは多作で、多くの場で尊重されているジョージ・ワシントンやムハンマドといった人物の伝記や、コロンブス、ムーア人、アルハンブラ宮殿など15世紀スペインに関する多くの本を書いた。
アーヴィングは1830年代に西部のフロンティアを旅し、西部の民族に関して一瞥したところを『プレーリーの旅 A Tour on the Prairies』(1835年)に記した。彼は、ヨーロッパ人やアメリカ人とネイティブアメリカン民族との関係を悪化させることに反対する以下のような発言をしたことで知られている:
植民時代の初期には、白人達のために二重に中傷された数多くの不幸な先住民がいた。彼らは金目当てで頻繁に起こされた理不尽な戦いによって先祖代々の領土を追い出され、さらには彼らの人柄も、頑迷で不純な作家達によって中傷されたのである。
アーヴィングの有名な自宅はサニーサイド(Sunnyside)にあり、現在もニューヨークのタッパン・ジー・ブリッジのすぐ南に建っている。この家と周囲の土地はもともと18世紀の入植者ウォルファート・アッカー(Worlfert Acker)が所有しており、アーヴィングは彼についての短編『ウォルファートのねぐら Wolfert's Roost』を書いている。また、マシュー・ペリー提督とも隣同士で交友があり、ペリーのことをJapanned(日本かぶれ)と呼んでいた[1]。
テキサス州の都市アーヴィングや、アラバマ州バーミングハムのワシントン通り(Washington Street)とアーヴィング通り(Irving Street)は、彼の名にちなんで名付けられたと信じられている。また彼の著書『ブレイスブリッジ・ホール Bracebridge Hall』は、オンタリオ州ブレイスブリッジの名の着想となった。
作品



Posted by whatislove at 10:59│Comments(0)短編
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